あさま37号

The House Of Marche
Railway Fan's Corner

このエッセイは31年間信越線のエースとして活躍した

特急あさま号とその関係者に贈ります。


上野から特急あさま号に乗り長野へ向かう・・・・

もう、何十回も繰り返してきた日常的な風景が9月30日で、

最後のものとなってしまいました。長野行き新幹線の開業

それは、信州の人たちにとって長年待ち望んできた夢の実現でした。

 しかしその裏では旅情、郷愁、歴史観というものが

徐々に失われつつあることも事実です。・・・寂しいことだと思います。



あさま
在りし日の「あさま」(犀川橋梁付近にて)


9月30日午後8時30分 私は北の玄関口 上野駅16番線ホームに

立っていました。東京駅の躍動している雰囲気とは対照的に

上野駅は昔から、郷愁を感じることの出来る駅の代表格です。

これはおそらく東京へ出てきた人たちの大部分が東北、上信越を

故郷に持っていることと大きな関わりがあるでしょう。

上野駅は、このホームに立っただけでもう故郷の香りがします。

そして、夜行長距離特急がそれに追い打ちをかけるように

何本も発車していきます。「夜行」「寝台」「北行き」と言う言葉が

なんとなく、暗いイメージを増長させます。交通網が発達し

都会も田舎もなんの隔たりもなくなってしまった今でも

戦後から続いてきた「都落ち」「出戻り」というイメージが

この駅にはおそらくあるのでしょう。

その上野駅から今日で最後となった信越本線あさま号の最終列車

21:00分発長野行きあさま37号が、今私の立っている

16番線プラットホームに静かにすべりこんで来ました。

最後のあさまを一目見ようと多くの鉄道ファンがカメラや

ビデオを片手にホームを所狭しと走り回っています。

月1回長野へ帰る私も当然この列車を利用するためにここにいます。

ファンの賑わい、サラリーマンの雑踏、各列車の発車を告げるアナウンスが

平和ないつもの一日の終わりを感じさせます。

明日も何事もなかったように同じ風景が目の前に訪れるかのように・・・

それが逆に「別れる人の前で、わざと楽しく振る舞い悲しみを

こらえているドラマの主人公」のように私の胸に何とも言葉では

表しがたい気持ちにさせます。車内のドキュメンタリーを映像にする

カメラマンクルー、最後のあさまの乗客にインタビューするレポーター。

そんな中私は4号車7番D席に腰を下ろし、

発車までの最後の余韻を味わっていました。



あさま37号
多くのファンに暖かく見守られて・・・

さよなら垂れ幕
お別れの言葉が上野駅16番ホームに掲げられた




20:59分 発車を告げるアナウンスが16番線ホームに響きます。

電子音で作られた無味乾燥としたあのコールが今日はやけに

よく聞こえます。一字一句が私を感傷的にしていきます。

多くのファンに見守られてあさま37号は

もう二度と帰ってくることのない上野駅16番線ホームを静かに後にしたのです。

列車は大宮まで山手線、京浜東北線等通勤電車と併走します。

今日で最後と知っている方が多いせいか、通過していく各駅では

手を振っている方もちらほら見られます。

何かしらあさま号に想い出のある人たちなんでしょう。

22:16分高崎に到着します。どの駅でもあさま号は暖かく

迎え入れられています。運転手に記念の花束の贈呈や

簡単なセレモニーを見ているとよけい私の目頭を熱くさせます。

ここで、あさま号は上越線と別れ、一路信州へ向かいます。

いつもなら、「まだ、高崎か」が今日は「もう高崎か」という心境です。

このままずーっと乗っていたい!そんな、小さな子供のような

想いが胸の中を駆け抜けていきます。そして、列車は数々の

ドラマを生んだ横軽(碓氷線)へと向かっていきます。




廃止間際の碓氷線にて
後残り僅かの日々を・・・(亀垣嘉明氏 撮影)


軽井沢 いま、この地名を知らないものはおそらくほとんどいないだろう。

明治時代から多くの文学者や著名人が滞在し、真夏でも平均気温が

20度以下の最高の避暑地である。

ここの、100年以上にも及ぶ歴史はそっくりそのまま

信越線、というより碓氷線の歴史でもある。

明治18年上野、横川間開通

明治21年軽井沢、直江津間開通

残りの横川、軽井沢間は最後まで難工事の連続であった。

それは、碓氷峠の急勾配を登る技術が当時の国鉄になかったためである。

軽井沢横川間直線で11キロ、たったこれだけの区間で

高低差が550メートル以上もあるところなど今も昔もここ以外には存在しない。

1キロ進む毎に66メートルものぼらなくてはいけない区間が延々と続くのだ。

あさま号の1号車と9号車では、5階建てのビル程もの高低差がある。

空き缶が車内を転がっていく光景を何度も見たが、成る程・・と思う。

結局ドイツのアプト式という山岳鉄道に使用される方式を

選んだわけだが、幹線で使用されるのは世界的にも稀だった。

工事も難を極め、500名近くの犠牲者を出したと伝えられている。

開業当初は蒸気機関車が時速10キロ以下で

横川、軽井沢間を1時間15分もかけて走っていた。しかしそれでも

かつてないほどの大量の輸送が軽井沢を発展させ、

明治末期には外国人の別荘を中心に200軒もの別荘が建ち並び

今の旧軽あたりは外国人の方が多く、看板の文字もほとんどが

欧文であった。眼鏡橋で知られる碓氷第三橋梁ももちろん当時の

建造物である。そして、碓氷線も輸送力増強と、ばい煙のひどさから

明治45年ドイツから10000型電気機関車を輸入し、日本で初めての

電化区間誕生となったわけである。この時点で両駅間の所要時間は

45分と蒸気時代に比べて30分も短縮されたのである。

これによってますます軽井沢は外国人、日本の知識人を中心に発展を遂げるのである。




坂を下るあさま
こんな急勾配は碓氷線以外には見あたらない


 

碓氷線を通ったことのある方なら気が付かれたこともあると思うが

途中に駅らしき残骸があるのをご存じだろうか?

当時は単線だったため、列車の入れ替えをするために熊野平駅という駅が

途中にあった。その熊野平で昭和25年6月、大災害が

起きたことを知っている方は少ないのではないだろうか?

当時、熊野平駅の回りには国鉄関係者だけの集落が立ち並んでいた。

おもに入れ替え作業員と碓氷線の保線にたずさわっている方たちが

駅の回りに住んでいたのだ。当時台風の影響で碓氷線のあちこちで

小規模な崖崩れが多発していた。保線作業員は明くる朝の始発に

何とか間に合うように夜を徹しての復旧作業をしていたその時

熊野平駅の裏山で悲劇は起こった。一瞬のうちに土砂に呑み込まれた作業員

そして、魔の手は家族の住む宿舎をも一呑みしてしまったのである。

50名もの尊い命が一瞬にして消えてしまった悲しい事件である。

今でも熊野平信号所(旧熊野平駅)には忌まわしい災害が

二度と起きないようにと願う「母子像」が線路を見守っている。

子供を守るように抱きかかえて懸命に助けを待っていた母の姿の像が

悲しみを新たにさせる・・・私は碓氷線を通る度にその悲しそうな姿を

見てきたがこのような歴史があったとは碓氷線が廃止となる半年前まで、

知らなかった。横軽間が無くなると云うことであちこちで話題に

のぼって初めて知った事である。「無知とは恐ろしい」とはよく言ったもんだ。




その、熊野平駅も新線の開業で信号所と変わりました。

今の(といっても今日で終わりだが・・)横軽間の下り線は

当時の複線化の時の一本を使っています。もう一本山側に作られた

上り線は、これからお話しする昭和38年以降に新たに建設されています。

眼鏡橋を下から見ると今でも3本の橋がかかっています。

一番下が眼鏡橋。SL時代の上下線と、電化初期から最初の複線化迄使用された

下り線。真ん中が、初めての複線化工事の時に使用された上り線、

そしてEF63登場から現在まで今の下り線として使用された。一番山側が

最後に作られた現在の上り線です。アプト式では、スピードアップに限界があるため、

昭和38年にはまたまた、新技術が投入されました。「峠のシェルパ」ことEF63の投入。

そしてそれとコンビを組み、信越線を全線機関車の切り替え無しで走れる

強力機関車EF62の登場である。2台とも非常に特長をもった機関車で、

EF62は、通常、日本では主動輪6つの場合2×2×2という

台車の配置が一般的であるがこのカマは3×3という

特殊な配置となっている。軸重を分散させずに、がっちりと線路を

噛んでいくその姿はまさに山岳用機関車だ。だがEF63は、もっと特殊だ。

碓氷線の専用機でこの二駅間のためにだけ投入されたこのカマは、

普通の機関車の倍近くの重量、急勾配用の強力ブレーキ

それに加えて、あさま号等「横軽仕様」編成のモーターを直接制御できるシステム。

これは、協調運転といってここを通る優等列車のほとんどが

EF63と組めるように改造もしくは新造され、型式番号三桁目の最後が

9で終わっているので、駅などで注意してみると

「あっこれは、信越線用だ!」とすぐわかります。

この、新型機関車の投入で所要時間も半分に短縮され、

軽井沢は押しも押されぬリゾート地と変貌を遂げていくのである。





EF62
廃止間際、機関車には特製ヘッドマークが・・



あさま37号は、その横川駅に私の時計で22:37分に到着した。

よそにもましてこの駅でのファンは多かった。EF63の最後の晴れ姿、

「峠の釜飯」で有名な「おぎのや」さんから機関士へお別れの花束。

そして、碓氷線を走る最後の列車となったあさま37号。

話題には事欠かせないせいもあるだろう。EF63だけをずっと

預かってきた横川機関区も今日を最後に「横軽仕業」からはずれていく。

最後の定期仕業に非番の作業員もおそらく来ているのだろう

思い出を胸に涙する者、機関車やあさま号に触っていくもの

それぞれの人生を見守ってきたこの車両達ともこの数分間で

お別れの時が来るのである。この碓氷線に関しては

アプト式時代から始まり、変遷を重ねてきただけにその時その時の

想い出をしまっていた人の数は他線の数倍にも及ぶであろう。

22時45分、あさま37号は「峠のシェルパ」に後押しされながら

横川駅を離れていった。発車後1分以上も鳴らし続ける列車のタイフォンが、

静かな山間に響き、その別れの挨拶が耳にいつまでも焼き付いていた。

列車は「母子像」のある熊野平信号所を通り抜ける。

気のせいかタイフォンの音が聞こえた。最後のあいさつと

碓氷線をずっと見守ってきてくれた事に対して運転手が

鳴らしたのだろうか?全ての出来事が私の胸を震わせていく。

車内ではあさま、そして信越線に思い出のある人達が

昔を懐かしむように会話をしている。子供の頃初めて上京した時の

話をするものもいれば、当時機関士で何度もここを走った思い出を

話す人もいる。私の隣にすわった72になるおじいさんは

信越線に深く関わった元国鉄マンであった。現役時代、急行「信州」や

「志賀」「野沢」そして特急「あさま」のマスコンを握ったこともある

運転手OBだ。色々な話を聞けて楽しかったがそれがまた逆に胸を刺激する。

この方の青春を奪ってしまうような信越線の縮小。私はこの状況に

耐えきれず、いったんデッキに出て気を落ち着かせてから座席へ戻ってきた。

列車は各駅を通過する毎に長いお別れのタイフォンを鳴らし続けている。

お世話になった方達へのお別れの挨拶だ。運転手は今どんな気持ちで

マスコンを握っているのだろうか?・・・あさまが泣いている・・・

そうこうしているうちに列車は長野市内の犀川橋梁を通過していく。

私の鉄道写真のホームグラウンドだ。ここで、何度「あさま」や「白山」を

撮影した事か・・・ここを渡ればもう長野の街の灯りが見えてくる。

何かもう、回りの人達もいてもたってもいられないようだ。・・

安茂里駅を通過する。「あと一駅だ・・・」

もう本当に最後なのか?もしかしたら明日の朝長野駅7番線ホーム

に行けばいつもと変わりなく「あさま」が「しなの」と肩を並べて

私を待っているんじゃないか?・・私は一人子供のように自問自答しているその時・・・・・・

車内に到着を告げるアナウンスが流れた。いつもとひと味も二味も違っていた

二度と聞けないアナウンスを、私は目を塞ぎながら一字一句を刻み込んだ。

「本日は「あさま37号」をご利用下さいましてありがとうございました。

あと5分ほどで終点の長野に到着でございます。「特別急行あさま号」

を長い間ご愛用、またご乗車下さいましてありがとうございました。

本日をもちまして「あさま37号」は、運転を取りやめさせていただきます。

本当に長い間、ご乗車下さいましてありがとうございました。

明日10月1日よりは「新幹線あさま号」といたしまして長野行きになります。

新幹線あさま号をどうぞよろしくお願いいたします

本日は「あさま37号」ご利用下さいましてありがとうございました。

本当に長い間ご愛用下さいましてありがとうございました。

まもなく終点の長野に到着でございます。」




ところどころ言葉に詰まるアナウンスに車内は蒼然としています。

 私はもう感情の高ぶる限界に来ていました。やっぱり終わりなんだ。・・・



あさま37号はいつもと何ら変わりなく長野駅へ滑り込んでいきました。

私も含めて列車が回送されるまでホームを離れようとしない

人たちが何人もいます。最後のお別れをするためでしょう。

「明日からどうするんだい?」思わずそんな言葉をかけてやりたくなりました。

私が18年前、初めて東京から長野へ大学受験のために来た時降り立ったこのホーム

長野の会社に入社し、出張や旅行の都度お世話になった「あさま」号

友を迎えに、寒い冬何時間も遅れた列車を待ったこのホーム。

心にしまっておいた想い出が、ひとつひとつ走馬燈のようによみがえります。

「あさま」に使用されていた一部の車両は解体され、比較的車歴の新しい編成は

「快速」列車として長野〜直江津間で使用され、また一部は新宿〜松本間の

特急「あずさ」に使われると聞いています。皆さんも中央東線で

車体の横に信越線専用車を表す9の文字が入ったあずさ号(189系)を見たら

「あさま」を思い出して下さい。そして、あなたの胸の想い出の扉を

そっと開いてみて下さい。あなたの心の中であさま号はいつまでも走り続けます。

もちろん私の心の中でも・・・・・


ありがとうあさま号・・さようならあさま号・・・・・



1997年9月30日の記録より

マルシェ


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このページの制作に当たって亀垣嘉明氏のご協力を頂きました。
同氏には深く感謝とお礼を申し上げます。
亀垣氏の 「横軽」のサイトを是非ご覧下さい。

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